徳と許しについて
モラルハザードの構造
最後のあたりに少し違和感があったので書いてみた。
>>道徳律というのはわかりやすいものである。
>>それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、
>>愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
>>それが自分に祝福を贈るということである。
>>世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなる
>>というタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
まぁそのとおりと思う。
「思いやり」の「思いやる対象」は他人ではなく、
もしそうなっていた場合の自分である。
その状態の自分を許容できるかできないかという価値観を求めるということだ。
ただ「自分のような人間ばかりでも愉快にやっていける」
というのは若干いいすぎのような気がする。
へんなことやっている人間や少数派というのは多様性を保持するために必要なものだ。
(ここらへんは最近読んだ「非属の才能」山田玲司の受け売りだが)
彼らは大多数の同調圧力に屈しないだけのパワーを秘めているし
煮詰まった現状を変える何かをもたらしてくれる。
そういう彼らが全員呪いにかかるという理論展開に少し違和感を感じた。
「自分のような人間ばかりでも世界はやっていけるだろう。」
くらいのアバウトさでいいような気がする。
「こんな自分ばかりだったらやっていけない」と思うような人でも
悲観することはない。
あなたの独創性は必ず必要とされるからだ。
結局はこの話は「許し」の話だと思う。
自分の存在自体を自己認証というか許せる人(開き直れる人とも言う)
はきっと呪いにはかからない。